大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和52年(オ)1395号 判決

上告人 入山利一

被上告人 国

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人小栗厚紀、同戸田喬康、同山本秀師の上告理由第一点について

本件記録からうかがわれる訴訟の経過によれば、原審が所論の点につき自白は成立していないものとして事実摘示を行い、かつ、その判断をしたことは結局正当であると認められる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第二点について

本件借入れがあつた昭和二〇年一〇月当時の官制によれば、国のために金銭を借入れる事務は専ら大蔵大臣の所管に属し、外務大臣にはその権限がなく、外務大臣は、予算を前提とし会計法令の許容する範囲内でその所管事務のため支出負担行為をすることができるだけであつたこと、また、総領事は、出納官吏として国のために支出負担行為をすることができるだけで、金銭を借入れるなどの積極的な債務負担行為をする権限を有していなかつたこと、がそれぞれ明らかであるから、これと同旨の原判決に所論の違法はない。更に、外務大臣が喜多総領事に対して在留邦人からの金銭借入れを指示する本件訓電を発するについて閣議決定を経ておらず大蔵大臣との協議もしていなかつたことは、原判決挙示の証拠関係に照らして肯認するに足り、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

同第三点について

原審の適法に確定した事実関係のもとにおいては、民法一〇九条の規定による表見代理が成立しないものとした原審の判断は正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

同第四点について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、上告人が喜多総領事に国のためにする金銭借入れの権限があると信じたことにいまだ正当な理由があるものとはいえないとした原審の判断は、結論において是認することができないものではない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第五点について

本件における事案の内容及び審理の経過に照らして原判決に所論の違法があるとはいえず、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 環昌一 横井大三 伊藤正己 寺田治郎)

上告理由

第一点 原判決には「判決ニ影響ヲ及ボスコト明ナル」審理不尽ないしは訴訟手続の法令違背がある。

そして、原判決の右誤まりは、手続の法令違背であると同時に「判決ニ理由ヲ附セス又ハ理由ニ齟齬アル」場合の誤まりにも該当する。

いずれの点からしても原判決は破棄を免れないものである。

第一、原判決の誤まりある部分

一、金銭消費貸借成立についての事実摘示

原判決(以下一審判決と対比する意味で二審判決ということもある)は、その事実摘示において本件の骨格である金銭消費貸借成立に関する上告人の主張事実とそれに対応する被上告人の認否を次のとおり整理している。

「一 第一審原告の請求の原因

1 第一審原告は第一審被告国の機関であつた青島総領事喜多長雄に対し次のとおりの内訳により中国連合準備銀行券(以下連銀券という)で、その金額合計一、一五〇万円を朝鮮銀行青島支店の在留邦人援護委員会委員長名義の口座に振り込む方法で貸し付け、同総領事は本国に引揚げ後、国庫から弁済することを約束した。

(一) 昭和二〇年一〇月三〇日 二〇〇万円

(二)       同月三一日 五〇〇万円

(三) 同   年一一月 一日 三〇〇万円

(四)       同月 八日 一五〇万円

2 喜多総領事は第一審被告国のため第三者から金銭を借り入れる機関権限ないし代理権限を有していた。」(原判決三丁)

「3 金銭貸付けのいきさつについて」

「(三) 外務大臣吉田茂は昭和二〇年九月七日付で、「在外邦人引揚経費ニ関スル件」と題し、

「在留民処置ニ付テハ此ノ上トモ各館ニ於テ万全ノ策ヲ議セラレ遺漏ナキヲ期セラレ度処之ニ要スル経費相当多額ニ上ルモノト察セラレ之ガ一部ハ勿論出来得ル限リ各現地ノ事情ニ応ジ民団、民会、日本人会等ヲシテ引受ケシムベキモノト思考スルモ結局大部分ハ国庫ニ於テ負担スル外ナキニ至ルベシ然処之ニ対スル予算ノ計上困難ナルノミナラズ送金亦不能ノ状況ナルヲ以テ差シ当リ各現地ニ於テ便宜凡有ル方法ニ依リ支弁シ置カレ度ク後日之ヲ整理スルコトト致スベキニ付其ノ使途、金額、明細出来得ル限リノ証憑書類等ヲ整備シ保存シ置レ度シ」

との訓電を青島総領事館あてに発した。」(判決四丁)

「二 請求原因に対する第一審被告の認否

1 請求原因1の事実は争う。喜多総領事は本件借受の行為をしたものではない。

2 (仮定的に)同2の事実は否認する。」(原判決一〇~一一丁)。

3 「(三)の事実は認める。」(原判決一一丁)

二、理由中の判断

1 金銭消費貸借に関する認定

原判決は、右に述べた事実摘示中の金銭消費貸借成立について理由の冒頭で不可解にも(その理由は後述)証拠を挙げて次のように認定している。

「原本の存在並びに成立に争いのない甲第一号証の一ないし四、第二、三号証、第四号証の一ないし四、第五号証、第一二号証の五等に弁論の全趣旨をあわせると、第一審原告が第一審被告国の機関であつた青島総領事喜多長雄に対し、その主張の各日に連銀券で、その主張の金額合計一、一五〇万円を朝鮮銀行青島支店の在留邦人援護委員会委員長名義の口座に振り込む方法で、貸し付け、右総領事が本国に引揚げ後国庫から弁済することを約束したものと認めるのが相当である。」(原判決二二丁)。

2 自白の撤回に関する判断

次いで、原判決は「二喜多総領事の金銭借入れの権限について」と題する項を設けて、喜多総領事は本来国のため金銭を借入れる権限を有していなかつたと述べた後、上告人の自白の撤回の主張に関し次のようにいう。

「5なお第一審原告は、第一審被告が原審で、本件借入金の債務者が国であることを自白したので、その自白の撤回に異議があると主張しているが、第一審被告が右の点について自白していないことは明らかであるから、右異議の主張は理由がない」(原判決二三~二四丁)

三、問題の所在

右に指摘した原判決の事実摘示と理由中の事実認定と自白の撤回に関する説明には、判決に影響を及ぼすべき明白なる審理不尽ないしは訴訟手続の法令違背が含まれており、この誤まりは同時に判決の理由を附せず又は理由にくい違いある場合にも該当する。

以下に詳述するとおり、上告人の主張する要件事実を被上告人において一旦自白したものを自白が当初よりなかつたものとして事実摘示し、上告人の自白の撤回に関する異議について明確な理由を示さないままにこれを排斥している原判決は、弁論主義と裁判所を拘束する自白の意義を誤解し、民事訴訟法二五七条の解釈適用を誤つて訴訟手続の法令違背の違法であるというべきである。

この誤まりは民事訴訟の根本原則の一つである弁論主義を無視したものであつて、これが判決に影響を及ぼすことは明白と考える。

第二、当事者の生の主張と一審判決の理解

問題の金銭消費貸借成立に関する当事者の生の主張と認否を訴訟記録から正確に拾い上げ、次に一審判決の事実整理と理由での説示を整理する。

一、訴状の請求原因

上告人は訴状請求原因二、四、五項において次のように金銭消費貸借の成立を主張したのである。

「二 ところで、第二次世界大戦後、外地の混乱した情勢下において、青島における日本国総領事喜多長雄は在留邦人の生命保護と本国引揚についての緊急措置に迫られていたが、本国からの送金が杜絶し困惑していたところ、日本国政府外務大臣吉田茂は昭和二〇年九月七日右総領事に宛て、取敢えず現地邦人より資金の借入れをされたい旨の訓電を発した。」

「四 原告は右通牒にこたえ青島総領事館(総領事喜多長雄)に対し総領事が日本国に引揚げた後国庫金で返済する約束のもとに中国連合準備銀行券(円と元は等価)にて朝鮮銀行青島支店(支店長安藤直明)在留邦人援護委員会委員長口座に振込みの方法により右のように金員を貸与した。

昭和二〇年一〇月三〇日 金  二〇〇万円

同   年一〇月三一日 金  五〇〇万円

同   年一一月 一日 金  三〇〇万円

同   年一一月 八日 金  一五〇万円

合計     金一、一五〇万円

五右原告の貸金は当時国の一機関である青島総領事に対し貸与したものであるから国は当然にその返済の義務があるものであるが、右総領事が昭和二一、二年に日本国に引揚げたにもかかわらず、これが返済をなさないので原告は被告に対し昭和二二年三月三一日返済の請求をした。

しかしながら、依然として返済がなかつたところ、被告はようやく昭和二七年金五万円を支払つたので、原告はこれを昭和二〇年一〇月三〇日付の貸金二〇〇万円に充当したので差引被告に対する貸金は一、一四五万円残つているが被告は返済しない。」

二、準備書面における認否

この主張に対し被上告人は昭和四七年九月一三日の第一回口頭弁論期日では事実調査未了との理由で認否を為さなかつたが、同年一一月一一日の口頭弁論期日には事実調査の結果(訴の提起は同年七月であるので調査には約二ヶ月余を要したことになる)を踏まえた同年一〇月九日付準備書面にもとづいて上告人の主張する右請求原因事実について次のとおりの認否を為したのである。

「第二項 認める。」

「第四項 認める。ただし、『右通牒にこたえ』との点は否認する。

なお、中国連合準備銀行券の単位は円である。

第五項 原告の貸金が、当時国の一機関である青島総領事に対するものであること、青島総領事喜多長雄が日本国に引揚げたこと(引揚年月日は昭和二一年四月二九日である)原告が被告に対し日時は不明であるが、返済の請求をしたことおよび昭和二七年(七月二四日)に金五万円を原(ママ)告が被(ママ)告に支払つたことは認める(ただし、この支払いは、原告主張の請求に基づくものではなく、昭和二五年一月一八日原告が在外公館等借入金の確認に関する法律(昭和二四年法律第一七三号)の規定による確認申請をしたことに対して支払つたものである)が、その余は争う」。

被上告人は、消滅時効に関する主張を昭和四七年一二月六日付準備書面にもとづいて為したが、一審の口頭弁論終結まで上告人との右金銭消費貸借成立時の状況に関する反論、反証は何も提出しなかつた。

三、一審判決の事実摘示と理由中の判断

1 上告人と被上告人の右主張とその認否にもとづき、一審判決は事実摘示で次のように述べている。

まず請求原因の項では

「二、青島における日本国総領事喜多長雄は、第二次世界大戦後外地の混乱した情勢下において、在留邦人の生命保護と本国への引き揚げについて緊急措置を執ることを迫られていたにもかかわらず、本国からの送金が杜絶して困惑していたところ、日本国政府外務大臣吉田茂は、昭和二〇年九月七日右総領事に宛てて、とりあえず現地邦人から資金の借入れをされたい旨の訓電を発した。」

「四、原告は右通牒にこたえ、青島総領事館に対し同総領事が本国に引き揚げ後国庫金から返済する約束のもとに、中国連合準備銀行券(円と元は等価)にて、朝鮮銀行青島支店(支店長安藤直明)在留邦人援護委員会委員長口座に振込む方法により次のように金員を貸与した。

1 昭和二〇年一〇月三〇日 金  二〇〇万円

2 同  年同 月三一日  金  五〇〇万円

3 同  年一一月 一日  金  三〇〇万円

4 同  年 同月 八日  金  一五〇万円

合計      金一、一五〇万円

五、右原告の貸金は当時国の一機関である青島総領事に対し貸与したのであるから国は当然にその返済の義務がある。

右総領事は昭和二一、二年頃日本国に引揚げたので、原告は被告に対し昭和二二年三月三一日右貸金の返済を請求した。

六、被告は昭和二七年にようやく原告に金五万円を支払つたので原告はこれを昭和二〇年一〇月三〇日付の貸金二〇〇万円に充当する。」

と述べ(一審判決二~三丁)、これに対する被上告人の認否を

「一、請求原因……第二項の事実は認める」

三、同第四項の事実は認める。但し通牒にこたえたものでないし、中国連合準備銀行券の単位は『元』でなく『円』である。

四、同第五項の事実は認める。但し青島総領事が日本国に引揚げたのは昭和二一年四月二九日であり、返済請求された日時は知らない。

五 同第六項の事実中被告が昭和二七年原告に金五万円を支払つたことは認め、その他を争う。但し、この支払は原告が昭和二五年一月一八日在外公館等借入金の確認に関する法律(昭和二四年法律第一七三号)の規定による確認申請をしたことに対し昭和二七年七月二四日支払つたものである。」

と述べている(一審判決四丁)。

2 そして右一審判決は理由の冒頭において

「一、青島における日本国総領事喜多長雄は第二次世界大戦後、外地の混乱した情勢下において在留邦人の生命保護と本国への引揚げについて緊急措置を執る必要に迫られていたにもかかわらず、本国からの送金が杜絶して困惑していたところ、当時の日本国政府外務大臣吉田茂は、昭和二〇年九月七日右総領事に宛てて、とりあえず現地邦人から資金の借入れをされたいとの趣旨の訓電を発したこと、原告は右総領事が本国に引き揚げ後国庫金から返済する約束のもとに中国連合準備銀行券にて朝鮮銀行青島支店(支店長安藤直明)在留邦人援護委員会委員長口座に振り込む方法により原告主張のとおり前後四回にわたり合計金一一五〇万円を貸付けたこと、右総領事は日本国に引揚げたので、原告はその後被告に対し右貸金の返済請求をしたこと、被告は昭和二七年に原告に対し金五万円を支払つたことについてはいずれも当事者間に争がない。」

と述べている。

簡単にいえば一審判決は右の主張と認否から被上告人は本件貸金債務の成立を自白していると理解していたのである。

四、控訴審での被上告人の認否の変更

――自白の撤回――

1 第二審の審理に入ると被上告人は突然昭和四九年六月二〇日付準備書面(一枚目以下「一第一審原告の本件債務の存在に対する判断について」の項)において、一審での右金銭消費貸借に関する認否を変更する主張を為したのである。

すなわち、先に上告人が引用した昭和四七年一〇月九日付の準備書面の第五項に関する認否は一審判決のいうように債務の存在を認めたものではないとの主張を為したのである。

そして右昭和四七年一〇月九日付準備書面で為した認否が、青島総領事の借入権限を争う主張を含むものであることを当然の前提として、青島総領事に借入れの権限ないことを詳細に主張しはじめたのである。形式的には要件事実の認否を変更する体裁をとつていないが、その内容は借入代理権を否認していると解される。

後に要件事実の項で詳しく述べるが、被上告人の代理権限に関する右認否の変更は自白の一部撤回に該当することは動かし難いところである。

付言するに被上告人は主張の変更の理由として鉄面皮にも「消滅時効の抗弁が認容されると考えていたというのであるが、これが自白の撤回における錯誤に該当しないことは明らかであろう。

2 上告人はこれに対し昭和五二年二月一五日付準備書面(七丁表第二の「二自白の撤回に対する異議」の項)で次のように主張した。

「一審被告の認否の変更は自白の一部撤回に該当するものと考える。

一審原告は一審被告において、国の一機関である喜多総領事が一審原告より本件借入を為したことを認めて当審の審理開始まで他に積極的にその法律効果の帰属につき反論反証を為さず、その債務を国において負担したことを認めているのを有利に援用し、一審被告の右自白の一部撤回につき異議を述べる。」

上告人の右主張は、単に法律効果の帰属に関する被上告人の主張の変更のみを自白の撤回と考えているわけではない。上告人主張の要件事実中代理権限に関する要件事実の認否変更についてもこれを自白と考えて異議を述べているのである。「自白の一部撤回」の語を使用しているのは右認識にもとづくものである。

第三、本件における要件事実と当事者の主張

一、本件における要件事実

ここで、上告人が本件貸金請求の根拠として請求原因で主張しなければならない要件事実について検討したい。

上告人が法人の一つである被上告人国との間で金銭消費貸借が成立したことを主張するためには、(1)法人の行為、(2)代理、(3)消費貸借の三つの事項にわたる要件事実を主張しなければならないと考えられるので、これを整理した上、上告人の請求原因での主張が右要件事実を満たすものであることを論証する。

次いで、被上告人の為した前述の認否が自白に該ることを明らかにする。

1 法人の行為

(一) 法人の法律行為を主張するための要件事実としては通常次のように説かれている。

「法人は現実の行為は不可能であつて法人と一定の関係にある自然人の現実の行為が一定の場合法人の行為と認められるのである。その自然人は法人の代表機関である。この代表機関が法人の行為能力の範囲に属する行為をしたときそれを法人の行為と認める。

代表機関がいかなる形式で行為をしたとき、それが法人の行為としての効果を持つに至るかについて明文の規定はないが、代理の規定がすべて準用されると解される(我妻、民法総則一四一頁)。

従つて代理行為の形式、表見代理、無権代理の諸規定も準用になる。」(司法研修所民事教官室編「民事訴訟における要件事実について」一〇頁)。

(二) 本件の事実関係についていうならば、被上告人国の機関である青島総領事喜多長雄が上告人からの金銭借入れという行為を為したことということになる。

2 代理

(一) 有効な代理行為の成立を主張するための要件事実は次の二つである。

「(イ) 代理行為

すなわち代理人が本人のためにすることを示して意思表示をなしたこと(代理人が意思表示をした場合)。

又は相手方が代理人に対して本人のためにすることを示して意思表示をなしたこと(代理人に対し意思表示がなされた場合)。

本人のためにするとは本人の利益を図るとの意味ではなく本人に法律効果を生じさせることを意味する。」

「(ロ) 代理権

すなわちその行為が代理人の権限内の事項に属すること。」

「なお(ロ)の点が争われたときは、遡つて当該代理権の発生原因としての、法定代理人にあつては法定の要件事実、任意代理人にあつては授権行為を主張立証することとなろう。もつとも実際上代理権の発生原因として授権行為を立証すべき場合に、これを直接立証せず、間接事実によりいきなり代理権の存在を認定してしまうことが多い。しかしそれは理論的には、その間接事実によつて授権行為のなされたことが推認される場合に該当するのであろう。」(司法研修所民事教官室編「民事訴訟における要件事実について」一五頁)。

(二) 本件の事案に即して要件事実をいえば次の二点となる。

(1) 被上告人国の機関(=代理人)である青島総領事喜多長雄が本人である被上告人国のためにすることを示して本件の金銭借入を為したこと

(2) 右青島総領事喜多長雄には本件の金銭借入を為す権限(=代理権)があつたこと

3 消費貸借

(一) 「消費貸借に基づき、貸主が借主に対し目的物の返還を請求する場合に主張立証すべき要件は

(1) 金銭その他の代替物の返還の合意

(2) 目的物の授受(要物性)

である。」

「小目的物の授受は消費貸借の成立要件であつて、これがなければ消費貸借は成立しない。しかし、目的物の授受は現物の交付と同一の経済上の利益の授受をもつて足り、必ずしも目的物そのものの占有の現実的移転である必要はない。」(司法研修所民事教官室編「民事訴訟における要件事実について」五一頁)。

(二) 本件の事案に即して要件事実をいえば次の二点である。

(1) 被上告人国の機関である青島総領事喜多長雄が、日本国に引揚げ後に被上告人国において借入れた金員を返済することを上告人に約束し、返還の合意が成立したこと

(2) 上告人が被上告人の機関である青島総領事喜多長雄に対し、上告人主張の如く四回に分けて金一、一五〇万円を朝鮮銀行青島支店の指定口座に振込む方法により交付して貸付けたこと

4 敢えていうまでもないところであるが、ここに掲げた要件事実は、主張立証の責を上告人が負うもので全部自白の対象となるのであつて、これを認める旨の被上告人の陳述は自白として裁判所を拘束するのである(菊井、村松「民事訴訟法Ⅱ」二三三~二三七頁、村松ほか「判例コンメンタール16民事訴訟法Ⅲ」一五~一九頁)。

二、訴状の請求原因の記載

1 前述の訴訟請求原因の記載が、前に述べた要件事実を充足しているかどうかを具体的に検討する。

(一) 被上告人国の機関である青島総領事喜多長雄が上告人から金銭を借入れたとの記述が訴状請求原因四項、五項に含まれていて、法人の行為としての要件が充たされていることは明白と考える。

(二) 青島総領事喜多長雄が本国引揚げ後に返済するとの約束(返還の合意)を為して、上告人から上告人主張の金一、一五〇万円を朝鮮銀行青島支店の指定口座振込みの方法により受領(代替物の交付)したことが訴状請求原因第四、五項に記載されていることもまた明白である。

(三) 次に代理の要件であるが

(1) 被上告人国の機関である青島総領事喜多長雄が本国引揚げ後に被上告人から返済することを約束したとの主張が訴状請求原因第四項にあること、被上告人国の機関である青島総領事に対して貸与したから被上告人国が当然に返済の義務を負うとの主張が訴状請求原因第五項にあることから、本件借入が本人である被上告人のためにするものであつたとの代理行為の要件事実を満たしていることは明らかである。

(2) 代理権の存在については訴状請求原因二項で訓電により金銭借入れの指示が外務大臣から青島総領事喜多長雄に与えられたとの事実の主張があり、被上告人の機関である青島総領事が本件借入を為したとの記載が訴状請求原因四、五項にあることからして、本件借入につき青島総領事喜多長雄に代理権があつたとの主張の為されていることは明白である。

2 訴訟上甲が乙の代理人丙から商品を買い受けてその引渡しを求める場合に甲が主張すべき事実については通常次のようにいわれる。

甲は、乙を売主、甲を買主として売買が成立したと主張することもでき、乙において自ら直接甲と売買を為したことがないとして売買の成立を否認したときに、甲は乙代理人丙との間における売買の合意が成立したことを主張すれば足る。そして、甲は乙代理人丙との間で売買が成立したと述べれば代理に関する代理行為と代理権という二つの要件をも主張したものと考える。乙において代理権の存在、範囲を争つたときにはじめて、丙の売買についての代理権授権の事実を述べれば足るのである。最初から事細かく全ての要件事実を網羅的に主張することは煩に堪えないので必要がない(司法研修所では現にこのように司法修習生に教えているし、裁判の実務もそのように行われている。前掲の「民事訴訟における要件事実について」の一四ページの設例も同様の理を示していると解される)本件についていえば、上告人と被上告人国の機関青島総領事の間で金銭消費貸借が成立したとの主張を為すときは、代理行為、代理権の存在についての主張があると解さなければならないのである。

先に引用した「民事訴訟における要件事実について」(一五頁)が代理権が「争われたときは遡つて当該代理権の発生原因としての、法定代理人にあつては法定の要件事実、任意代理人にあつては授権行為を主張立証することとなろう。」と述べているのは、右に述べた考え方に立つていることを示すものである。

また、右同書(一五頁)が言葉をついで「実際上代理権の発生原因として授権行為を立証すべき場合に、これを直接立証せず、間接事実によりいきなり代理権の存在を認定してしまうことが多い。しかしそれは理論的には、その間接事実によつて授権行為のなされたことが推認される場合に該当するのであろう。」と述べているのは、通常営業部長、常務取締役、工場長、支店長、外務大臣、大使あるいは総領事などといつた地位とか担当職務というような間接事実から代理権の存在が認定されることの多いことを述べていると解されるのである。

3 右に明らかな如く上告人の請求原因は、前に述べた要件事実を全て充足しているもので何ら欠くるところはない。

一審判決も、右に述べた如く要件事実を考えたからこそ、上告人の訴状請求原因の記載をほとんどそのまま転写して判決の事実摘示を構成しているのである。

三、準備書面における被上告人の認否の評価

1 上告人の主張した訴状請求原因に対して被上告人が昭和四七年一〇月九日付準備書面で為した具体的な認否は、前述したとおり(一一頁)であるが、これを前述の要件事実(二二頁)と対応させて検討する。結論から先にいえば、被上告人は上告人の主張した要件事実を全部認めて自白しているというべきである。

すなわち、

(一) 被上告人国の機関である青島総領事喜多長雄が上告人からの金銭借入れの行為をしたこと(機関の行為)については訴状請求原因第四項、五項に対する認否で

(二) 被上告人国の機関である青島総領事喜多長雄が本人である被上告人のためにすることを示して右借入れを為したこと(代理行為)については同四、五項に対する認否で

(三) 右青島総領事喜多長雄には右借入れを為す権限(=代理権)があつたこと(代理権)についても同第二、四、五項に対する認否で

(四) 青島総領事喜多長雄が本国に引揚げ後に被上告人国が借入れた金員を返還することを上告人に約束したこと(代替物返還の合意)については、同第四項に対する認否で

(五) 上告人から被上告人の機関である青島総領事に対し、四回に分けて金一、一五〇万円朝鮮銀行の指定口座に振込む方法により交付して貸付けたこと(要物性)についても同第四項に対する認否で

それぞれ認めて、自白したというべきである。

2 なお、代理権に関する訴状請求原因の記載は前記訓電により青島総領事に対し借入れの指示があつたこと、青島総領事喜多長雄が被上告人の機関として被上告人のために本件借入れを為した旨の間接事実主張にとどまるのであるが、これが青島総領事に借入権限ありとの主張事実を包含しているものであることは前に述べたところから(三一頁)明らかであるから、右の各事実を認めるときは借入れの代理権限あることをも含めてこれを認めることになることもまた明白である。

前述の例でいえば甲と乙代理人丙との売買の合意を認めて代理権について何も争う旨を述べないときは丙の代理権存在をも認めて自白したこととなるは明らかであろう。

また、被上告人が右昭和四七年一〇月九日付準備書面の請求原因五項に対する認否で、「その余は争う」と述べている部分があるが、これは上告人が貸金の「返済の義務がある」と述べている部分に対応して法律効果を一応争う趣旨を示しているに過ぎないと解されるのであつて代理権を争う趣旨とはとうてい理解できないのである。

前例に即していえば甲と乙代理人丙間の売買の合意成立の事実を認めて目的物の引渡しを争うのと同視されるべきである。

3 右の如き要件事実の自白は、「いつたん自白が成立すると、裁判所は自白された事実(権利自白が有効な限り法律効果も)を判決基礎としなければならず、また自白者もこれに拘束され、自白に反する主張ができなくなる。この効力は上級審にも及ぶ(法三七九)。」

「裁判所は、自白が真実に合致するか否かを判断する必要がないだけでなく、証拠調べの結果、反対の心証を獲得したとしても、自白に反する事実認定をしてはならない。」(村松ほか「判例コンメンタール16民事訴訟法III」一八頁)。

一審判決は右の自白にもとづき、前述の事実整理と理由中の判断において(一審判決四丁八丁九丁)、被上告人と上告人の間で上告人主張の貸金債務が成立したことを自白しているとしているのは、被上告人の認否を正しく理解しているものであつて、控訴審で被上告人の批難するような一審判決の誤まりは存しない。

第四、原判決の誤まり

一、主張事実の整理について

1 原判決が為した本件金銭消費貸借成立に関する上告人の主張とそれに対応する被上告人の認否についての事実整理は冒頭(二頁)で述べたとおりであるが、この事実整理の中には重大な誤まりが存する。

2 原判決の整理した上告人の請求原因には、特に大きな誤まりはないようであるが、この請求原因に対する認否の記載は、現実の審理において、被上告人の為した認否と全く相違している。前にも述べた如く、被上告人は上告人の主張する要件事実のうち代理権限を除くものについては控訴審においても一貫してこれを自白しているのである(一一頁)。代理権限についてははじめ上告人の主張事実を認めたが後にその自白を撤回しているがその理由の説明はないというのが真実である。

ところが、原判決は代理権限を除く要件事実については不可解にも「争う。喜多総領事は本件借受の行為をしたものではない。」との認否をしている。法律上の意見に対する認否として使われる「争う」という用語が使われていることも不可解であるが、それにもまして不思議なことは、被上告人の自白が全く無視されていることである。

そして、残る一つの要件事実、代理権限についても仮定的に否認するとの摘示を為している。認否について仮定的にという限定がつけられなければならない理由が全くわからない。認否を仮定的にしか摘示ない判決というのは釈明が十分でないことを推測させるものでそれ自体審理不尽の違法あることを自ら暴露したものと考えることもできよう。ここでも被上告人が認否を変更して自白とその一部撤回が意図的に無視されて、原判決を構成した三人の裁判官しか理解できず、また適用しない特殊な主張事実の整理というべきであろう。

3 また、本件で問題とされる訓電についても上告人は本件訓電の趣旨が青島総領事において現地邦人から金銭借入を為すようにとの摘示を含むものであることをも併せ主張し、被上告人はこれを全面的に認めて自白しているが(九頁及び一一頁)、原判決の整理では、この訓電の趣旨の部分についても、上告人の主張がないかのように事実整理が殊更歪められている。このこと自体は一つの間接事実であるかも知れないが、代理権限についての重要な間接事実であるだけに正しい整理がされなければならなかつたと考えられる。

4 このように原判決が被上告人の認否を訴訟で現実に為された認否とは全く異るものとして整理している真意は、被上告人が本件貸金債務成立の要件事実を全部争つていることにすれば、自白の撤回にあたるかどうかを正面から判断しなくてもよくなることからして、起案における筆先だけの作業で真実と相違する架空の争点を裁判所が勝手に創作し右自白の撤回に関する裁判所の判断を回避しようとしたところにあると推測される。

その真意の忖度はともかくとして、原判決が為した右事実整理は裁判所を拘束する裁判上の自白を無視した訴訟手続の根本にふれる重大な違法があることは明らかである。

二、理由中の判断について

1 理由の冒頭(原判決二二丁)で原判決は上告人主張の貸金債務成立に関する事実中、代理権限を除く要件事実を証拠によつて認定しているが、前述したところから明らかの如く一審判決の為したように当事者間に争いない事実として説示しなければならないものである。

代理権限に関する要件事実について、被上告人が最初から争つていることを前提にその不存在を証拠によつて述べている。これもまた一審の口頭弁論終結時までは争いがなく、一審判決が述べるように被上告人がこの点について自白していたのであるからその認否の変更が許されるかどうかについて議論がされなければならないのに原判決はこの点に全くふれていないのは明らかに自白の意義を誤解したか、あるいは問題点をすりかえようとしたとの批判を免れない。

2 本来当事者間に争いない事実を証拠によつて理由中でそのとおり認定したとしても、違法であるがそのことのみを以て、「原判決に影響を及ぼすべき訴訟手続の法令違背」ということができないとされているようである。しかしながら、本件は、この違法が自白の撤回に対する異議についての判断を回避する結果をもたらしているところに極めて重大な問題があり、証拠によつて争いない事実を認めた違法のみの問題として考えることはできない。

事実整理を誤まつて(ここには意図的な裁判所の恣意がうかがわれるのであるが)争いない事実を証拠で認めて自白の問題についての裁判所の正しい取組みが行われなかつたという全体像として考える必要がある。

三、まとめ

1 原判決のこれらの誤まりは、民事訴訟の根本原則の一つである弁論主義を無視して裁判所を拘束すべき自白の内容と範囲を誤解ないしは看過した結果、本来の重要な争点の一つである自白の撤回についての当事者の正しい争点整理も為されず、原判決が本来求められている判断も示されなかつたものということができる。

裁判所が拘束されるべき自白の範囲とその認否に変更あつたかどうかを先づ確定することが裁判所の為すべき第一の作業であるのに、原判決が正しく右争点の整理を為さずこの判断を殊更回避しているのは明らかに違法であり審理不尽ないしは訴訟手続の法令違背というべきである。

そして、原判決の右誤まりが判決の結論に対して直ちに影響を及ぼすべきものであることについては以上述べてきたことから極めて明白と考える。

(一) 東京高裁昭42・4・24判決(判例時報四八八号六五頁)

被上告人が上告人に対し建物収去土地明渡しを請求した事案において、被上告人の建物が上告人により建築されたとの主張事実を上告人が認めた後、控訴審で第三者にする建築であると主張を変更したのが自白の撤回にあたると判断している。

(二) 東京地裁昭38・12・26判決(ジユリスト二九八号六頁)

右「相手方の所有であることを認める」旨の陳述は権利自白であるから、その後相手方が所有権を争うことは許されることになるが、右権利自白の中には「本件の土地は原告がその主張の年月日東京都より払下げを受け、その主張の年月日その所有権移転登記を受けた」旨の原告主張事実に対する自白を包含していたものと認めるべく、この点の自白は事実に対する自白であるから相手方の同意を得るか又は右自白が事実に反し錯誤に基づくことが立証されない限り取り消すことが許されないものと解すべきである。

(三) 岡山地裁昭46・10・25判決(判例時報六六二号八〇頁)

原告が原告名義で被告銀行に預け入れた預金の払戻請求をした事案において、被告側が預金者が原告であるとの主張を一旦認めた後に、真実の権利者は第三者であるとの主張を為したが、原告名義とすることを約束した当事者間ではその名義人を預金権利者とする者の合意があつたと認めて、自白の撤回を許さなかつた。

(四) 東京地裁昭和36・10・25判決(判例時報二八一号一八頁)

約束手形の振出についてこれを自白した被告が、後に振出が正当な権限ある者によつて為されなかつたとしてこれを否認した事案でその自白の撤回には錯誤がないとしてこれを許さなかつた。

(五) 大阪高裁判決昭和37・12・18判決(下民集一三巻一二号二四八八頁)

預金者から支払請求を求められた銀行が預金授受による預金契約成立を認めた後、これを両建による預金契約であると主張した事案につき、これを自白の撤回にあたると判断した。

2 また、原判決の右誤まりを角度を変えてみるときは、裁判所を拘束する要件事実に関する自白の撤回に関して、何らの理由を示さないままに、被上告人の代理権限についての自白撤回を認めた上、上告人の自白の撤回に対する異議の主張を本件要件事実について具体的に検討することなく排斥したものということができる。

原判決は第一に控訴審における被上告人の代理権限を争う主張の展開が自白の撤回に該るかどうかを吟味し、もし自白の撤回に該るとすれば(自白の撤回に該ることは先に述べたとおり)被上告人の認否が事実に反するもので右認否を為すにつき上告人に錯誤が存したかどうか明確にしなければならないのである。

ところが原判決は右の如くに論理を進めることなく、冒頭で述べた如く(六頁)具体的な説明をすることなく被上告人の主張には認否の変更をしたことがないと断定したのは、「判決ニ理由附セス又ハ理由ニ齟齬アル」ものであることは明らかである。

第二点 原判決は審理不尽ないし理由不備の違法がある。

第一、原判決は、喜多総領事及び外務大臣の権限について、なんら審理をせずにたんにその当時の官制の形式的な解釈により誤まつた判断をしたものである。

一、原判決は喜多総領事は本来国のため金銭を借入れる権限を有せず、かつ右権限を有しない外務大臣からその権限を授与するが如き訓令を受けても、その権限授与の根拠とならず、しかも帝国議会の協賛を経ていなかつたのであるから、喜多総領事には右権限がなかつたものと解せざるを得ないと判示している。

しかし、右判断は誤りである。

すなわち、原判決は、右結論の前提として、その当時の官制によれば国のための金銭借入れに関する事務は専ら大蔵大臣の所管に属し、外務大臣にはその権限がなく、予算を前提として会計法令の許容する範囲内でその所管の業務のため支出負担行為をすることができただけであつたと判示している。

また、旧憲法によれば、国が金銭借入れをするにあたつては帝国議会の協賛を経なければならなかつたことが明らかであるとしている。

しかしながら、右判決が判示するとおり、大蔵省官制、外務省官制によれば、本件借入れ当時、国のための金銭借入れに関する事務は、専ら大蔵大臣の所管に属していたとしても、外務大臣にそのような権限が全くなかつたと断定することはできないものである。

二、外務省設置法第三条は、外務省の任務を定めているが、その第九号は海外における邦人の保護を同省の任務としているものである。

また、同法第四条は外務省の権限を定めているが、その第二八号に邦人の引揚に関する事務を行うこととされている。

また、同条三号は所掌事務の遂行に直接必要な事務所等の施設を設置し、及び管理すること、同条四号は所掌事務遂行に必要な事務用品等を調達することを、同省の権限を定めているものである。

従つて、まず第一に外務省は右に定められた任務を負い、右任務を実行するために右に定められた権限を有することが認識されなければならない。換言すれば、喜多総領事が邦人引揚のためになした一切の行為は、もともと外務省の固有の事務であつたものである。

次に、右任務実行のための権限の行使に際して、原則的には予算の範囲内で必要な支出負担行為をすることに限られていることも同条第一号によれば明白である。しかしながら、あくまでこれは通常の予算、財政制度の下での議論である。右平時の会計原則がそのまま妥当しない場合には、前記の大蔵省官制、外務省官制では、規定されていない状態となるのである。そのような特別な状態に際して、旧会計法(大正一〇年四月八日法律第四二号)はその第一一条第一号に次のように定められている。「政府ハ予算ニ定ムルモノ及特ニ帝国議会ノ協賛ヲ経タルモノヲ除クノ外災害事変其ノ他避クヘカラサル事由アル場合ニ於テハ国庫ノ負担ト為ルベキ契約ヲ締結スルコトヲ得」

従つて平常時においては、政府は予算の定める範囲内においてその執行をなし、その範囲の金銭借入れに関する事項は、専ら大蔵大臣の所管であつたことは間違いないとしても、旧会計法はわざわざ災害事変その他避くべからざる事由のある場合に於て予算の定めがなくとも政府が国庫の負担となるべき契約を締結することを定めているのは、そのような異常な事態にあつては、政府の各行政機関がその予算制度に拘束されないで、その災害事変の混乱から国民を速かに救済することを急務として認めているに外ならないものである。そのためには当然に債務負担行為をなす権限も各機関に与えられているものである。仮りに、そのような災害、事変の際にも大蔵大臣しか権限がないとするならば、右緊急事態に敏速、適正に対処することは困難であり、わざわざ旧会計法が予算の拘束を解放した趣旨が完全に失われることになるのである。旧会計法に定める災害、事変その他避くべからざる事由ある場合とは、まさに原判決が認定しているような本件借入れ当時の青島の状態をいうものであり、かかる状態においては、政府は予算に定めた外の債務負担行為ができるものであり、かつ、右機関である外務大臣が金銭借入れをなす一般的権限を有するに至るものである。

三、仮りに外務大臣が金銭の借入れに関する一般的権限を有していなかつたとしても、日本国政府は、本件借入れ当時、外務大臣に対し、右借入れをなす権限を授与したものである。

ポツダム宣言受諾、無条件降伏という異常な事態の中で、政府としては外地及び外国在留邦人間の多大な動揺と混乱の救済を急務としていたものであつて、右に対処すべき次のような決定がなされた。

1 政府においては、昭和二〇年八月三〇日、外地及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱を次官会議で決定した。

右決定は、「太平洋戦争終結に伴い、外地及び外国在留邦人にして本土に引揚を余儀なくせらるる者相当ある現況にかんがみ、政府においては左の如く措置し、これが対策の万遺憾なきを期するものとすとしてその第二項に、上陸地ならびにその他の地において一時的に要する共同的の宿舎施設、食糧、医療及び輸送に要する経費は国庫において負担するものとすること」とされている。

2 同年九月七日には外征部隊及び居留民帰還輸送等に関する実施要領が閣議了解され、右によれば「九月六日の閣議決定に基く外征部隊及び居留民の帰還輸送等に就いては、現地の悲状に鑑み、内地民生上の必要を犠牲とするも優先的に処置すると共に他に一切の方途を講じ、可及的速かに之が完遂を期するものとす」とされている。

3 同月二四日に次官会議において海外部隊並に海外邦人帰還に関する件として、次のとおり決定がなされた。

「方針として海外邦人に関しては、極力之を海外に残留せしむるため、その生命財産の安全を保障すると共に居住地における生活の安定を期することとし、帰還すべき者に対しては、速かに配船その他帰還に必要なる措置を講じ、かつ帰還者については内地における就業その他指導に遺憾なきを期するため、海外邦人帰還対策委員会を設置する。要領として委員会を必要に応じ三部会に分ち、第一部会は外務省が中心となり海外居留民の生命財産の保障、生活の確保等に関する事務の処理に当り」とされている。

4 右決定は、公知のことであるが、引揚援護の記録の資料の部にまとめられている。

四、右に明らかなようにわが国はポツダム宣言の受諾、無条件降伏により異常事態に陥り、特に中国本土においては、極めて混乱した状態にあると推測されたので、平常時の職務権限のままでは、とうてい海外邦人の帰還事務を敏速かつ適正に処理することができない状態にあつた。そこで政府当局者としては、閣議次官会議において、引揚事務を最優先の施策と判断し、経費の国庫負担、早期解決、在留邦人の生命財産の保障、生活の確保等の方針をうち出したものである。しかして、次官会議では、外務省を中心とする帰還対策委員会が海外邦人の生活の確保、事務の処理にあたることとなつた。そのような認識は、政府当局者の共通な認識であつたものである。

そのような共通の認識にたつて、九月七日の外務大臣の訓電が発されたのである。

右訓電は、原判決が判示するように、救済費、引揚費の全額を算出できず、また、帝国議会の協賛を経るについては、その手続のためにかなりの日数を要し、そのうえ外地への送金方法が確保されておらなかつたので、緊急の異常事態下にあるものと判断し、在外公館員が平常時と同様に法令に拘束され、法令許容された限度内の行動のみをとることにより在留邦人を十分に救済できなくなる事態に陥ることをおそれ、本件訓電を根拠にして救済及び引揚げの目的を遂行するために適切なあらゆる手段方法をとるように訓令する趣旨で大蔵省の担当主計官等から一応の了解を得て発せられたものである。

右の経過について、乙第三号証によれば、本件訓電の起案者たる長岡伊八は、現地の混乱は、内地以上と思われ、大使、公使、領事等が混乱のとりまとめに困惑していると想像されたので、領事等に肚を決めさせ、引揚の費用は現地へ送れないが、現地で適当な措置をとつて、とにかく早く帰ることを意図したというのである。

また、同人によれば、訓電を起案し第一に外務省会計課長と相談し、同道して大蔵省へ赴き、同省で外務省担当の主計官に面会し、電信表を示したところ、主計官はこうするよりしかたがなかろう、相談するから一寸待つてくれといつて別室へ行き、その後上司の了解を得てきたとの報告を受けたものである。

五、前記の閣議決定、次官会議の趣旨からして、在留邦人の生命財産の安全を守りその生活を確保して、できるかぎり速かに帰還させることが政府の急務であつたものであり、そのために必要な一切の行為をなす権限が国の各機関それぞれに分有されていた状態であつたというべきである。特に外務省は、その当時在留邦人の帰還事務を処理する最高の機関であつたものである。その処理方針は閣議及び次官会議で決定されていたものであり、このような異常事態にあつた経過を直視すれば、その当時政府が、前記閣議及び次官決定により外務大臣に対して在留邦人の生活を確保するために金銭の借入れをなす権限を授与したと判断するのが正当である。

六、原判決は、事実審理をなんらすることなく平常時の官制のたてまえから外務大臣の権限を判断したものであるが、これでは、その当時における外務大臣の真実の権限の判断したものにならないことは明らかである。

最高裁判所は、紙類販売業者が学校法人たる大学の出版局総務課長と自称する同局総務課長心得と折衝のうえ大学に対して紙類を販売し、その売掛代金を請求した事件において、「しかしながら、民法一一〇条適用の前提たる代理権については、事業内容とその機構につき、単に制度上のたてまえからのみその有無を判断すべきではなく、その事業の実際の運営状況の実体に即して判断すべきものといわなければならない。然るに原判決は出版局の機構からもまた具体的事項についても課長心得に大学を代理する権限は全くなかつたと判示するに止まり、実際上用紙買入れ以外の事項について大学を代理するか如きことも全くなかつたかどうか等運営の実際に即して十分な審理を尽した形跡が認められない。原審の認定はこの点について審理不尽の違法ありといわなければならない」と判示し、本件紙売買代理権及び、民法一一〇条適用のための基本代理権を認めがたいとした原判決を破棄差戻したものである。(昭和三五年六月九日第一小法廷判決民集一四巻七号一三〇四頁)。

原判決の判断は、まさに右判例の指摘のとおりであり、たんなる制度のたてまえに基づく、規定の形式的解釈に終始し、外務大臣の権限行使の実状については全く触れるところがないものである。

(なお、外務大臣の権限については、近時ダツカで発生したハイジヤツク事件において、アルジエリア政府に対して外務大臣が閣議了解なく身代金返還請求権を放棄し、話題をよんだが、乗客の安全確保の観点及び事件解決の緊急性等から是認されたものであり、このような権限の判断が、そのような異常事態の中で、動態的に把握されていることが注目される)

以上のとおりであつて、原判決は、審理不尽の結果、外務大臣の権限、ひいては喜多総領事の権限についての判断を誤つたもので、その違法は判決に影響することが明らかであるから、原判決は破棄さるべきである。

第二、なお、原判決には次のような理由の不備の違法がある。

一、原判決はその当時の外務大臣及び喜多総領事の権限を判断するに、平常時の官制のたてまえより判断した。

右権限を官制のたてまえより判断したことは、当然にその当時において右官制のたてまえがそのまま日本全土及び中国本土にも妥当し、法律関係を規制するものとの前提にたつたものである。

二、一方、原判決は、表見代理の主張を否定する理由として本件借入れは日本国の敗戦により中国においてはもちろんのこと本国内にとつても異常事態のもとでなされ、そのような状態で、総領事が国のためにする金銭借入れの有効な取引上の権限があつたと信ずるのは津村に過失があつたと判断した。

しかして、後に詳しく述べているとおり(第三点、代理権についての解釈の誤り)、原判決は、右判断の前提事実として、当時の青島がいかに異常な状態にあつたかを、具体的に述べているものである。

三、右判決が具体的に指摘する異常事態の中で特筆すべきは、原判決は本件借入れ時の異常事態状況においては、津村らは、右借入金の返済は財政問題として処理され、返済されるかどうかは国の財政政策次第であるとの前提で、貸与したものであると判断していることである。

津村がそのような予測をできたとの判断は誤りであるが、それはともかくとして原判決の判示どおりとすると本件借入れは極めて異常な事態の下でなされたことだけは明言されるところである。

一般論としても、返済は相手方の意向次第との貸借がおこなわれるなどとは通常ありえないことであり、そのような前提で貸借がなされたとするならば、その異常事態の程度は極めて高度なものと理解されるのである。

四、以上の次第であつて原判決は、表見代理の過失の判断にあたつては本件借入れは、極めて異常な事態のもとでなされたと判示しながら、一方外務大臣及び総領事の権限については、平常時の官制のたてまえがそのまま妥当するとの前提で、権限なしと判示しているものであつて明らかに理由において齟齬が存するのである。

この理由の不備は判決に影響することが明らかであるので、原判決は破棄さるべきである。

第三点 原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな民法一〇九条の解釈・適用を誤つた違法がある。

一、原判決の判断

原判決は民法一〇九条の適用について

「外務大臣が本件訓電を発するにあたり閣議を経ていなかつたことはもちろん大蔵大臣と協議したこともなかつたことが認められしかも外務大臣は総領事に対し国のための金銭借入れの権限を授与する権限を有していなかつたのである。

かかる権限のない外務大臣が権限を授与するが如き訓電を発しても民法一〇九条の規定する代理権の授与の表示にあたらないものと解すべきである」

と認定している。

二、原判決の判断の誤まり

しかし、右認定は明らかに失当である。

(一) まず、原判決は、本件当時外務大臣が総領事に対し(官制上)金銭借入れの権限を授与する権限がなかつたと判示しているのであるが、これが誤りであることは第二点第一に詳述したとおりであり、原判決は既にこの点において失当である。

(二) 更に原判決は、自らが権限を有しない外務大臣が権限を授与するが如き訓電を発しても民法一〇九条の規定する代理権授与の表示にあたらないとする。

しかし仮に、外務大臣が右電報を発する時点で右権限を有しないことを前提としても原裁判所の右判断は誤りである。

即ち民法一〇九条の表見代理において代理権授与の表示をなす本人がその表示行為の当時、当該権限を有していることは、同条の表見代理成立のための要件でないことは右条文の文理解釈からも明らかである。

そもそも民法一〇九条の比較法的根拠は禁反言(estoppel)および外観主義(Rechtsschein)にある(注釈民法(4)九〇頁)。

外観主義の法理は事実に反する外観が存在する場合に、かかる外観を作り出すことについて責任ある者は、その外観を信頼した者に対してはそれが事実に反することを主張しえないとする法理である。禁反言の法理も外観主義とほぼ同様に、ある者が自己の行為に反する主張をすることを法律上禁止され、その主張が真実に合致するものであるか否かを問われないことにある。

表見代理制度の現代的意義も、右のような考え方と軌を一にするものであり、本人の作り出した表示行為という外観を信用して表見代理人と取引した相手方を保護することにより代理制度に対する社会的信用を維持しもつて取引の安全を図ろうとするものである。

本人が真に権限を授与しうべき地位にあつたか否かは敢て問うところではないのである。

現実の問題としても代理権授与の表示をなした当該本人が、その当時仮にその権限を有していなかつたとすればなおさら本人の責任は重大というべきであり相手方保護の必要は一層増大するのである。

してみれば無権限者があたかも自己がその権限を有するかの如く表見代理人に対し授権の表示をした場合においてはこれを信じた相手方に対し表見代理人のなした行為の効果を否定できないものというべく、もし右行為の結果生じた債務を本人が無権限であつたが故に果し得ないとすれば最終的には損害賠償の義務を負う結果となるのである。

勿論、誰の目にも明らかに権限を有しないものが、たまたま授権の表示をしたとしても、そのような行為の主体たる本人が表見代理人の行為による責任を負うことはないであろう。しかし、それは相手方の善意無過失という表見代理の他の要件を欠いた結果に外ならないのである。

右のとおり原判決は民法一〇九条の基本的理解不足から、その解釈適用を誤つたものといわなければならない。

(三) 右の点について更に敷衍するに本件の当時、外務大臣が右権限を有していなかつたのは、単に危急の必要の故に行政法規の定める国の内部手続を経ていなかつたにとどまるものであり外務大臣は右の手続さえ履践すれば適法に借入権限授与の表示行為の主体たりうる地位にあつたのである。

本件では後述するとおり、青島総領事を指揮するのは外務大臣であり、大蔵大臣ではないのであるから、電報を受けとる側ではその電文に記載ない限り、外務大臣にその権限ありと信じて借入れの手続に着手するのが通常の判断である。

権限を取得していた場合にも電文自体は同じ外観を呈して打たれることを重視しなければならない。

してみれば右のように、常にある権限授与の主体たり得る地位にある者(=外務大臣)がたまたま表示行為の当時何らかの事情でその権限を有していなかつたとしても、それを全く権限授与の主体たりうる可能性のないもののなした場合と同視し、これを一律に扱うことが相当でないことは明らかであろう。

従つて仮に民法一〇九条が原判決のいう如く、権限ある者によつて授権の表示がなされることを要件としているとしても、なお本件のような場合においては同条を類推適用すべきものと解するが相当である。

外務大臣の発した訓電と青島総領事が右訓電を上告人代理人津村らに示したことは、民法一〇九条にいう「第三者ニ対シテ他人ニ代理権ヲ与ヘタル旨ヲ表示シタル」場合に該当するといわなければならない。

原判決の判断は極めて形式的であり右民法一〇九条の解釈適用を誤つた違法がありその違法が判決に影響を及ぼすべきことは明らかであつて、原判決はこの点から破棄を免れない。

第四点 原判決には影響を及ぼすべき民法一一〇条の解釈・適用を誤つた違法がある。

一、原判決の判断

原判決は、上告人の「権限踰越による表見代理」の主張に対し、正当理由なしとして次のような理由によりこれを排斥した。

「本件借入れは、日本国の敗戦により、中国においてはもちろんのこと本国内にとつても、異常事態のもとでなされたが、当時、第一審原告は本国内に居住し、青島にいたその代理人の津村勇、入山春見らを介して本件契約を結んだものの、津村は昭和二〇年三月ころから同年五月ころまで本国に一時帰り大都市の空襲による被害状況を知り、敗戦時における本国内の異常事態をも予想できたものと認められ、かように本件借入れは当事者双方にとつて現実に知り又は予想できた異常事態のもとでなされたものである。しかも本件借入れについては、その消費貸借の内容について、外務大臣による具体的な指示がなく、喜多総領事の裁量により決定されたものであり、本件借入金の返済についても、通常の消費貸借契約のように契約内容により返済自体が決められているものではなく、その返済については法律、予算として帝国議会の協賛を経ることを前提としていたものとみるのが相当であり、法律、予算として成立する過程においては、内閣、議会において他の財政問題との比較検討が加えられることが当然に予測できたものであり、ただ外務大臣としては本件訓電を発し、在外公館員らが金銭を借入れたいきさつを考慮し、できうる限り資金提供者の意向にかなつた返済ができるように、その趣旨にそつた法律、予算の成立に努力する責任を負つたにすぎないものであり、かつ津村勇らは本件訓電の趣旨および本件借入れ時の情況から右の事情を予測できたものと認めるのが相当であるので、これらの事情をさらに上来認定の諸事実にあわせ、殊に前記訓電内容の仔細な検討、法常識上の合理的判断からすると、第一審原告が、喜多総領事に、国のためにする金銭借入れの有効な取引上の権限があつたと信ずるのは、健全な国民常識の上から見てその思慮十分でないきらいあり少くとも過失あるを免れず、いまだその正当な理由があつたものということはできないものといわなければならない。したがつて、第一審原告の前記表見代理の主張は理由がない。」

二、原判決の判断の誤り

しかし、右認定もまた明らかに失当である。

(一) まず、原判決は正当理由がないことの根拠の一として、本件借入の当時、日本国内及び中国が異常事態にあつたことを津村が知つていたことを挙げている。

しかし、当時両国が異常事態にあつたことを知つていたことが何故に上告人の過失につながるのか、原判決は何ら納得しうる説明をなしていないのである。

むしろ、現地において総領事の要求に応じたものがたまたま官制に詳しく平常時においては、総領事に借入権限がないと信じていた者であつたとしても、本件のような異常事態のもとにおいてはなお、旧憲法七十条等による特別の措置としてそのような行為が許されるものと信ずるのが通常であろう。況んやそのような特別の知識を有しない津村が、外務大臣の訓電等(甲一二号証の五、甲三号証)を示され総領事に借入権限ありと信じたのは、洵に当然というべきであり、同人にとつて当時の社会状勢がどうあれ、国家を代表する在外公館の長が何らの権限なく国民から金銭の借入れをなすなどということはまさに予想し難い事実であろう。してみれば異常事態であつたことが上告人の善意・無過失を妨げる理由になるとする原判決の判断は明らかに誤りである。

(二) 次に原判決は、本件借入金が通常の消費貸借契約のように契約内容により返済自体が決められているものではないからその返済は法律・予算として成立した場合にのみなされることが上告人らに当然予測できたものであるとし、更に外務大臣は資金提供者の意向にかなつた法律・予算の成立に努力する責任を負つているにすぎないことも予測し得た筈であるとしている。

しかし、右のような判断は、原判決を担当した三人の裁判官のみに通用する驚くべき「常識」(上告人は独断と考えるが)である。

一般の国民が国家を代表する者の要請に応じ国の緊急の用に供するための金銭を貸与する場合において、細目についての取決めをするまでもなくその緊急事態の終了次第直ちに返還を受けられるものと信ずるのが通常の国民の健全な常識というべきであろう。そして本件においても右のような信頼関係が存在したが故に、返済期日その他一般人の間に行なわれるような細目の取決めが省略されているのである。

もし、原判決のいうように、国に対する貸金の返還は、法律・予算の成立にかかるものであり、それが成立しない場合においては国がその返済の義務を免れるというが如き事実を万が一にも上告人が知つていたならば、上告人を含む資金提供者の全てが総領事の前記要請を拒絶したであろうことはあまりにも明らかである。

上告人らは、相手方が国であるが故に将来適当な時期に確実に返済が受けられるとは予測したであろうけれども法律・予算が成立しない限り返済されないし、右の法律・予算が成立するか否かは国の財政政策によつて決定されるなどということは夢想だにしえなかつた事実であろう。そしてそれが善良な国民の常識というべきであろう。現に国のため右借入行為を行つた漢口総領事でさえ、そのようなことは予想だにし得なかつたというのである(甲一二号証の四、一四枚目)。

しかるに原判決は、上告人に対しこれを予測せよと要求し、予測し得なかつたとすれば国民常識の上から見て思慮十分でなく、その点に過失が存在するとするのである。

原判決の右判断はいかなる意味においても非常識の謗りを免い難いものというべきであろう。

(三) 以上のとおり、原判決が上告人に正当理由なしとする根拠は何れも、通常人の常識に照らし極めて非常識なものであり、右の如き事実が上告人の善意・無過失を否定する論拠となり難いことは洵に明らかである。

三、「正当理由」の存在

上告人が、本件貸借にあたつた喜多総領事に借入権限ありと信ずべき正当の理由があつたことは、上告人の原審における昭和五〇年二月一七日付準備書面に明らかなとおりであるが、この点につき重ねて次のとおり主張する。

(一) 在外公館の長が一定の事項につき国家を代表する権限を有し、かつ在留邦人を保護する義務を負うことは外務省設置法三条、四条の規定に照らして明らかであり、周知の事実でもある。従つて青島総領事が右の職責を遂行するために必要な範囲で金銭を借入れる権限があると一般の国民が信ずるのは極めて自然なことである。

(二) 加えて本件においては、右のような地位にある喜多総領事あての外務大臣の訓電(訓電が借入についての指示を含むことは第一点で述べたとおり当事者間に争いがない)があり、右訓電の指示に従い同総領事が甲三号証のような文書を地元銀行あて発していたのである。

これらの文書を示され、緊急に必要な資金の提供を求められた上告人が、喜多総領事に借入れの権限ありと信じたことを非難することは極めて本当であろう。

(三) 考えるに、本件訓電を読む側(青島総領事喜多長雄も上告人代理人津村を含めて)からすると、右訓電が正式の公電であり、本来同総領事が指示を受くべき上級機関たる外務大臣が正式のルートに従つて指示しているのであるから、外務大臣には金銭借入の権限が当時存していた(平時の官制上では金銭借入の権限ないことを偶々知つていたという場合をも含めて)と考える方が健全な国民常識ということは明らかである。

官庁の下級機関が右訓電の如き指示を受けた場合にその指示にもとづく具体的行動を起こす前に大蔵大臣から特にその権限が与えられたか否かを本省又は大蔵省に確認することを期待することの方が明らかに健全な国民常識に反する。

ましてや一国民である上告人代理人津村に対し、外務大臣に対し金銭借入権限の授与あつたことを確認しなかつたのが上告人側に不利益な事情としてあげられることは到底納得できない。

なるほど金銭借入の権限は大蔵大臣に属するとされてはいるが大蔵大臣が外務大臣に金銭借入の権限を与えた場合においても、その指示は外務大臣から青島総領事に対して本件の如き訓電が打たれるのであつて(大蔵大臣が電報で外務省職員に指示を与えることはあり得ない)外観からは喜多総領事自身にも確認の術がないのである。現に在外公館の長は本件の青島総領事を含めて右訓電により自己に金銭借入れの権限があつたと信じて行動しているのである。

右訓電は、被上告人の機関である国が外務大臣がその権限にもとづき青島総領事に対して金銭の借入の権限を与えたことを表示したものというべきである(原判決が事実摘示において訓電が借入の指示を含むとの当事者双方の主張を曲解してこれを削除しているのは明瞭なる誤まりである。被上告人はこの範囲では自白していると見るべきである)。

外地にあつて官制の知識も一般情報にも乏しい一人の国民であつた上告代理人津村において右借入れ権限の有無を確めなかつたことをもつて不利益な事情としてとらえ軽率と責める原判決の「健全なる国民常識」なるものは、原裁判所を構成した裁判官三名にのみ通用する特殊なものとしか考えられないのである。

(四) 本件のように官吏が本来の職務権限を越えて、契約をした場合の被上告人の責任について、当所の行政法上も次のように考えられていた(美濃部達吉「行政法提要」下六一三ページ)。

「政府ニ於テ売買、貸借、請負其ノ他財産上ノ契約ヲ為ス場合ニ於テハ、国債ノ募集ノ如キ特別ノ定アルモノノ外、一般ニ会計法及会計規則ノ定ムル制限ニ服ス。此等ノ制限ハ官吏ノ私曲ヲ防ギ会計上ノ非違ヲ除クノ趣意ニ出ヅルモノニシテ官吏ノ職務上ノ義務ヲ命ズルモノタルニ止マリ、民法ノ特別法ヲ定ムルノ趣意ニ非ズ、若シ其ノ制限ニ違反スルトキハ官吏ノ職務違反ニシテ官吏ハ其ノ責ニ任ズルヲ要スト雖モ、契約ノ効力ハ之ガ為ニ妨ゲラルルコトナシ」

本件の借入れが旧会計法の要求する手続、授権を欠いていたとしても、貸金債務の発生について影響を及ぼさないと考えるのがむしろ当時の常識と考えられていたのである。

原判決の強調する「健全な国民常識」の上からみれば、右のような事実関係のもとにおいては、総領事に借入れの権限ありと信ずることは洵に相当であるといわなければならない筈である。

よつて、原判決の右判断は民法一一〇条の解釈適用を誤つており且つその誤りが判決に影響を及ぼすこと明らかなものというべきであるから、この点からも原判決は破産を免れない。

第五点 原判決には釈明権不行使、審理不尽の違法があり、右違法は、原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。

一、釈明権の意義

弁論主義の機械的適用の結果生ずる当事者の不利益を救済するためになされる釈明権の適切な行使は、裁判所の権利であると同時に義務でもある。

従つて、裁判所が釈明権の適切な行使を怠り、その結果、判決の結論を誤つた場合においては、釈明義務違反として上告理由となることは、当然である。

二、右の点に関する過去の判例を概観してみるとき、釈明権の不行使の違法を認めて原判決を破棄し、あるいはこれとは逆に原審における釈明権の行使は適切でありその行使範囲に逸脱の違法なしとして原審における釈明権の行使を肯認し上告を棄却するなど、数多くの判例がある。そしてその何れもが一、に述べた見解を支持している。例えば、古く大審院時代の判例として

(一) 第三者に対する債務名義に基づいてその所有動産を差押えられ競売された者の不法行為による損害賠償請求事件において、不法行為が成立しない場合に、その本意が不当利得の返還を求める趣旨でないかどうかを釈明しないのは違法であるとし(大判昭和八・六・一五法学三巻一一三頁)、

(二) 債務がないのに仮執行宣言付支払命令を債務名義として強制執行されたことに基づく不当利得返還請求事件において、右請求が支払命令の既判力に抵触する場合に、債権者が債務名義の執行力がその内容上不当であることを了知しながら強制執行することは不法行為であるとし、原告の請求が不法行為に基づく損害賠償を求める真意ではなかつたかを釈明しなかつたのは違法であるとし(大判昭和一五・三・二新聞四五四九号七頁)、

いずれも原審の判決を破棄している。

右のような見解は、最高裁判所においても引継がれており、特に同裁判所における昭和二九年頃以降の判例にその傾向が著しい(最判昭和二九年八月二〇日民集八巻八号、最判昭和三一年五月一五日民集一〇巻五号四九六頁、最判昭和三九年六月二六日民集一八巻五号九五四頁、最判昭和四二年一一月一六日民集二一巻九号二四三〇頁、最判昭和四四年六月二四日民集二三巻七号一一五六頁、最判昭和四六年六月一八日判例時報六三五号一一二頁、最判昭和五一年六月一七日判例時報八二五頁――以上はいずれも原判決を破棄差戻した事例)。

特に、原裁判所の釈明権の行使についてその範囲を逸脱した違法はないとして、上告棄却した最高裁判所第一小法廷の昭和四五年六月一一日判決は、

「釈明の制度は、弁論主義の形式的な適用による不合理を修正し訴訟関係を明らかにし、できるだけ事案の真相をきわめることによつて、当事者間における紛争の真の解決をはかることを目的として設けられたものであるから、原告の申立に対応する請求原因として主張された事実関係とこれに基づく法律構成が、それ自体正当ではあるが、証拠資料によつて認定される事実関係との間に喰い違いがあつて、その請求を認容することができないと判断される場合においても、その訴訟の経過やすでに明らかになつた訴訟資料、証拠資料からみて、別個の法律構成に基づく事実関係が主張されるならば、原告の請求を認容することができ、当事者間における紛争の根本的な解決が期待できるにかかわらず、原告においてそのような主張をせず、かつ、そのような主張をしないことが明らかに原告の誤解または不注意と認められるようなときはその釈明の内容が別個の請求原因にわたる結果となる場合でも、事実審裁判所としては、その権能として原告に対しその主張の趣旨とするところを釈明することが許されるものと解すべきであり場合によつては、発問の形式によつて具体的な法律構成を示唆してその真意を確めることが適当である場合も存するのである」とし、釈明権の行使によつて、原告をして結果的に別個の請求原因を主張させることとなつた原裁判所の措置を肯認しているのである。

以上のとおり、過去の判例を一貫して流れるものは冒頭にも述べた如く、釈明権の適切な行使は弁論主義の機械的適用の結果生ずる当事者の不利益を救済し、紛争の適正かつ最終的な解決を図りもつて裁判に対する国民の信頼を得るために認められた訴訟指揮権の一内容であり、かつ、裁判所が訴訟当事者に対して負担する民訴法上の義務とみる見解である。

三、本件について

そこで、以下本件についてこれをみるに、

(一) 第一審以来上告人が本件において一貫して主張してきたものは上告人が被上告人に対し合計金一、一五〇万円の貸付金債権を有するということであつた。そして借入権限の有無に関する議論はともかく、金一、一五〇万円という大金が被上告人の機関である青島総領事に現実に交付され、しかもそれが在留邦人の生命の保護(領事領職員への給料支払いの比重が大きいが)と本国への引揚という、国家の国民に対する最も基本的な責務を履行するための費用として使用されたことは、紛れもない事実であり、被上告人もこの事実については敢て争つていなかつたのである。

換言すれば、上告人の財産上の犠牲において被上告人は右金額相当の国費の支出を免れたのであり、従つて被上告人は右と同額の利益を得ているのである。

本件で証拠として提出されている乙二一号証の一(一〇~一一頁)には、青島総領事において金銭を借入れた事情とその使途が証人中村猪之助により次のように述べられており、他にこれに反する証拠は見当らない。

「山東地区の借入機関は済南総領事館、青島総領事館であります。それから責任者は当時の済南では有野学という人であります。青島では、当時領事をしておつて、昨日付で外務省の連絡局長になりました伊岡祐二郎君であります。借入れの根拠は、外務省からの電命によつて現地でなんとか調達をしろということで借入れをしたのであります。その借入金の使途は、第一に公館の館員の俸給が払えぬというので、俸給その他の事務費であります。それから済南、青島の奥地から、また膠済鉄路の沿線から、どしどし流れ込んで来る難民の収容費、それから米軍が上陸し、中国軍がやつて来ました、その中国軍並びに米軍に対する交渉の費用、それから青島にLSTという船が参りまして、そこから乗船ということになりまして、済南に集まつた者も青島に参り、すべて青島から引揚げたわけでありまして、その引揚げの費用でございます。それからまた特に米、英、オランダ、その他の三国人を膠済鉄路の沿線にあります維県というところに収容しまして、そこで軟禁しておりました。ところが終戦になりまして解放するということになり、主としてみんな青島に住居がありますので、その住居にもどつて参りました。ところが住居が荒廃していて、軍が使つておつたところなんかは、ピアノもないし、絨毯もないし、冷蔵庫もない。みんな弁償しろということで、領事館はもちろんそういう費用はありませんので、当時商工会議所民団の方に、公館責任者が頭を下げて、どうか現地で調弁してくれと頼みました。それが一億七、八千万円になつておりますが、その金は、まず会社その他個人からの多額の費用で、終戦の年の秋を中心にして調弁されたのであります。そういうふうな特殊事情があるのであります。この借入金がありましたために、そういうふうな第三国人に対する、いわゆる今で言えば、国家賠償みたようなものを、すでに青島では行つておつたという状況にあります。

それから三十万そこそこの人間が無事に故国に帰り、生命が保たれて円満に引揚げができたということについては、この借入金によるのであります。この借入金は普通の借入金と違いまして、国家を救うという意味の金でありまして、何をさておいても返済してもらわなければならぬのでありますが、帰つてからすぐ払うと言いながら、六年も経過しておる。」

また、乙二一号証の七(二頁)における在外公館の借入金に関する法案審議の場では、在外公館等借入金の返済の実施に関する法律で拘束を受けるのは、引揚費、救済費に限られておりこれ以外に使われた領事館職員の未払給与や国家賠償に現実に充当した部分についてはこの法律の適用がないと考えられていたことが林修三政府委員(法政局長)の答弁からも知れる。

上告人において不当利得返還を主張するときに請求認容の余地の広いことがこれらによつても明らかである。

してみれば、百歩譲つて仮に上告人の貸金返還請求権が成立しないとしても上告人は被上告人に対し不当利得の返還請求権を有することは明白といわなければならない。即ち本件において上告人に不当利得返還請求の主張さえあればことさら立証の追加を要求せずして右主張の要件事実の認定は容易に可能であり、右請求は認容される事実関係にあつたものというべきである。

(二) 従つて、本件において万一、原裁判所が原審における弁論の終結に際し、原判決の理由記載のごとき心証をもし有していたとするならば(原審の訴訟指揮からみてその可能性は極めて強い)上告人に対し予備的に不当利得の返還請求権の主張を追加しあるいは、請求原因を変更するよう示唆する等、適切な釈明権の行使をなすべき義務があつたものというべきである。

仮に弁論終結後、右のごとき心証を形成したとしても、同様に弁論を再開し、釈明権の行使の機会をつくるべきであつたのである。

(三) 特に本件においては、原判決のような理由で上告人の敗訴が確定する事態が仮にあつたとしても右判決が上告人の被上告人に対する不当利得返還請求権にまでその既判力を及ぼさないことは自明であり、何ら上告人の再訴の妨げにはならないのである。

従つてもし上告人が再訴に及ぶときには訴訟経済にも反し、かつ上告人の救済を不当に遅らす結果を招来することは明らかであつたのである。

従つて、原裁判所に対してはこの意味からも釈明権の適切な行使が強く要請されていたのである。

四、まとめ

以上のとおり、本件において、もし原裁判所において原判決理由に記載の如き心証を形成していたのであれば、本件の適切かつ最終的解決を図るために原裁判所はよろしく上告人に対し不当利得返還請求権を行使する意思を有するか否かにつき、適切な釈明権を行使すべきであつたのである。そして仮に原裁判所においてその措置をとつていたならば、原判決の結論は全く逆のものとなり、かつ、訴訟経済にも合致するものとなつたであろうことも容易に推認されるのである。

してみれば、原判決には釈明権不行使、審理不尽の違法があるものというべく右違法が原判決に影響を及ぼすこと明らかであるからこの点でもとうてい破棄を免れないものである。

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